「青い炎 」ホホホ座浄土寺店
彼女は店を出るや否や、本を開かずにはいられなかった。次の予定が迫っている中、途中まで読んでいた記事の続きが気になっていた。
左京区にあるホホホ座浄土寺店。彼女は毎週のように通っている。彼女が一歩近づけば一歩横にずれ、少し離れれば少し近づいてくる、迎合されることもなく、突き放されるわけでもない。その距離感が、彼女を飽きさせはしなかった。
この日、彼女が手に取った季刊誌に、ある男性ジャーナリストが特集されているのをみつけ、高揚していた。彼女がジャーナリズムの世界に飛び込んだのはこの男性に憧れてのことだった。社会問題に切り込み続ける彼は、テレビの情報番組に出演し、専門外のことまで偉そうに語る偽物とは違った。彼が常々口にする言葉がある「真実はひとつではない」。彼女がまだ大学に通っていたとき、ジャーナリズムとはひとつしかない真実を突き止め、世界に発信することだと思っていた。しかし、彼の記事を読む度にそうではないことを気付かされた。
彼女が今手にしている雑誌のインタビューでも、彼はそのことについて言及していた。「ジャーナリズムとはひとつの解釈を世界に提供するに過ぎず、一人のジャーナリストにとっての真実でしかない。そのひとつの解釈が世界を一変させることもあれば、他方の真実をねじ曲げてしまう危険性もある。この仕事を続けて三十年経つが、自分の記事が出る前日の夜は未だに怖くて眠れない」
突然、店を出た彼女の頭の中で音楽が鳴り出した。刹那的なコード進行と、ねっとりとしたボーカルが絡み合うオルタナティヴ・ロックだった。いつものことだった。ホホホ座に来ると、その日のテーマ曲が流れ出すのだ。彼女の気分に合わせてなのか、彼女自身が無意識に選んだ曲なのかはわからない。
九月十日(土)晴れ
ホホホッ
ポップで楽しそうな曲が聴こえてきたかと思えば
九月十八日(日)雷雨
ボォボボォォォ
しゃがれたデスボイスが店全体を揺らす
九月二十四日(土)曇り
ボーーボーーボーーーーー
図太い低音がいつまでも鳴り響いていた。
彼女が店を訪れるのは休日が多い。しかし、この日は仕事の合間に訪れていた。午前中の仕事で嫌なことがあったのだ。ひどく落ち込んでいる様子だった。午後からの重要な仕事が上手くいくのか不安に陥っていた。
彼女は店を出るときに物寂しさを覚えていた。音楽フェスティバルが終了し、ゲートを出るときと似た気分。主催者と参加者が一体となり作り上げた、エンターテインメント空間からの退出。歩道に数歩出たところで本を閉じ、深呼吸をした。不思議と勇気が湧いてくる。「次に来るときまで頑張ろう」気持ちを切り替え、前を向いて歩き出した。
十月四日(火)
ホッホッホ
近所のおじいちゃんが、ジョギングで店の前を通りかかった。この一帯は、ホホホの変拍子で時間を刻む。
ホホホ座浄土寺店
住所:京都市左京区浄土寺馬場町71 ハイネストビル1階・2階
Web:http://hohohoza.com/
出典「本屋と女の共犯関係」
2016年11月1日発行
イラスト:PANKICHI
文 :本野 ひかり
表紙・デザイン:都築 麻美子
総合プロデュース:米本 和弘(THE読書ズ)
※本コンテンツ掲載にあたり、一部加筆修正をしております
【編集後記】
この作品集は出雲に住むイラストレーターPANKICHIさんの、「京都で展示をしたい」という要望がきっかけで制作されました。全8作品が収録されており、京都市内を中心とした新刊書店が舞台となっています。
打ち合わせ当時、PANKICHIさんが持っていたスケッチブックに、本屋で立ち読みをする女性の頭の上に家具が舞っている絵が描かれていました。それを見た僕と友人が、京都に実在する本屋を題材に進めてはどうかとアイデアを出し合ったことが企画元になります。
個展会場には今回紹介した「青い炎」の舞台にもなっている、ホホホ座浄土寺店を使用させていただきました。普段から仕事や客としてお世話になっていたのですが、この企画が始まった段階でどうしても外せない条件こそが「ホホホ座さんでの展示」でした。もし断られていたら「本」をテーマにすることも考え直していたと思います。
僕にとってホホホ座(旧ガケ書房)は憧れの店であり、そこで働く人たちもまた憧れの存在です。だからこそ全力投球で取り組み、これまで携わってきた企画の中でも特段思い入れのある作品となりました。快諾してもらえたことを今でもすごく感謝しています。
次回は恵文社一乗寺店を舞台とした作品「私の定位置」と、京都に数多くある素敵な本屋さんの中からこの作品集の舞台となった8店舗を選んだ経緯をお話できればと思っています。
総合ブロデューサー/米本和弘(THE読書ズ)
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