旅と読書。
世の中には、読書を目的とした旅をする人たちがいる。
どこかで、本を読む。その為だけに、見知らぬ土地を訪れる。
本を携えて。
京都市バスを「今出川大宮」で降りて、西に向かう。そのまま、今出川智恵光院を上ったところに古本市場がある。そこに立ち寄ってから、おとなりの桜井公園に行く。
この公園は、首途八幡宮という神社に隣接していて、周囲を小学校と高層住宅に囲まれている。
その為、いつも賑やかで、人の出入りが途切れない公園だ。
四月になると、桜が満開になり、花びらが吹雪のように舞う。
今はまだ、そんな気配は見えないけれど。
わたしはここで、本を読む。
二十一時過ぎに、夜の公園で。
とはいえ、外灯の明かりや月の光があるから、本を読むのはさほど難しくない。
古本市場からの光も、青くキラキラと零れている。
公園の中央にある人工池の飛び石を渡り、四阿のような場所にあるベンチに座って、ひとりで本を読む。陰翳礼讃やファイト・クラブじゃないけれど、人に隠れて暗がりで本を読むのは、どこか秘密めいていて、たのしい。
公園の奥にあるベンチに座って、目立たないように読書するのも悪くない。
でも、屋根の下で、息をひそめて読書するほうが、面白い。
春が訪れる少し前、足音は聞こえども姿は見えない。
そんな、あっという間の時間の夜を、味わいたくて。
ときどき、犬の散歩やギターの練習に来た人たちと目が合ったり、自慢のバイク(愛車)を引きずってやってくる少年たちに出くわす度に、わたしは自分の本を隠してしまう。
ポケットには、ボロボロになるまで読み込んだペーパーバックが一冊。
園子温という、映画監督がいる。
彼は、次に何をするのか読ませない人だ。
小説家であり、役者であり、芸人でもあり、詩人だ。多くの顔を持っているが、自分の色と匂いを強く残してゆく人だ。なぜ、そんなことができるのか。
彼が書いた「非道に生きる」というエッセイを、春が来るたびに読んでいる。
彼は、刹那の瞬間に恋い焦がれ、怒りや悔しさをやる気に変えて、映画や現代詩のフォームとルールを壊してゆく。
その日々は笑えるほど波乱万丈で、読んでいるこっちが赤くなるほどピュアで、修羅のようにハードだ。
例えば、自分で撮った映画「自転車吐息」をヒットさせた時や、東京ガガガにまつわる話は、凄いの一言に尽きる。
彼の語り口は滑らかで、目の前で話しているような体温を感じる。そんな、熱い本だ。
だから、今夜も読んでしまう。
自分だったら、彼をロールモデルにして真似をするのか。
それとも、自分だけの戦い方を見つけて、敵に回すのか。わたしに、そこまで突き抜ける情熱と心があるのか。
この本を読むたび、そういった自分の迷いに気付かされる。
それでも、何度目かの春を迎えるごとに、迷いは少しずつ変わってゆく。
「非道に生きる」を閉じて、公園を後にした。
入れ替わりに、暴走族の子たちが公園に入ってゆく。
彼らには、彼らなりの戦い方と力がある。
わたしにも。
夜の公園のベンチで、ひとりエッセイを読む。なるべく強烈なやつを。
自分が、何を迷っているのかを悟るために。
なぜ、言葉を綴るのかを知るために。
ここから、どうやって生きるべきかを考えるために。
桜を浴びる日を夢見るために。
今日。
わたしはここで本を読む。


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